小林信也の書斎 HOME
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大人の役割(草野球の続き) 2009/01/08
息子の同級生たちとの草野球で、アウトセーフの微妙な判定になると、子ども全員が僕の顔を見る。僕だって試合に参加しているのだから最初は「自分たちで判断しなよ」と民主的(?)なふりをしていたが、どうも雰囲気がしっくりと来ない。野球には審判がつきものだから当然なのか。子どもは案外大人に敬意を持っているのか、あるいは大人をしっかり使っているのか。観念して僕は即座にジャッジを下すことにした。ときに判定に不満の声をあげる少年も。だけどしつこくない。「チクショー」とか言いながらも、いじけず、すぐプレーに戻る。「今日初めて野球をやった」と言う少年が「絶対当たらないよ」と打席に立つと、守る方も打つ方も「当たるよ、弱気になるな」と応援する。うまく当たって一塁に生きると、「やった、人生初ヒットだね」と声が飛ぶ。いまどきの子どもと草野球に興じながら、いろいろと感じた。
公園で草野球 2009/01/07
正月休みの午後、公園で息子とキャッチボールをしていると、近所の子どもが「一緒に野球やろう」と声をかけてきた。そこに小学校の同級生たちが登場。「サッカーやりに来たんだ」けど、草野球に参加。7人の少年と親父ひとりが2チームに分かれての試合となった。いきなりボールが木の上に乗る。少年がひとり、するすると木に登り、4m以上もの高さで枝を揺する。ほかの子はサッカーボールを持ってくる。都会の子もたくましさを持っている。たっぷり1時間以上草野球に興じたあとキックベースとなり、まもなく公園を駆け回る鬼ごっこに変わった。鬼がサッカーボールをぶつける即興ルール。日が落ちるまで子どもたちは疲れた様子もなく、駆け回っていた。
教える資格・導く資格 2009/01/03
「名選手必ずしも名コーチにあらず」、転じて「名選手でなくても名コーチになれる」。それが曲解されているのか、コーチになると途端に競技の練習をやめる人が大半です。弱肉強食の世界でリーダーは常に「いまいちばん強いモノ」。スポーツはそこに言い訳があります。立場で人の上に立ち、肩書きや“昔の名前”で指導が許される。本当はそこに違和感を覚えている選手が多いのかもしれません。今日は小学校4年の息子と公園でかけっこをしました。悲しいかな、相撲ではまだ勝てるけど、走ったらまるでかなわない。50mのタイムを計ると、息子は8秒そこそこ、僕は10秒もかかりました。息子から“いたわりの眼差し”で見られても仕方ありません。父の威厳や経験をふりかざしいても空しい。「歳だから」と言い訳せず、もう一度抜き去る努力を重ねます。
謹賀新年 平成21年元旦 2009/01/01
あけましておめでとうございます。
元旦の朝、玉川上水沿いの小道をジョギングしてきました。散歩のつもりが、思わず走り始めていた。足下で霜柱がサクサクと音を立てます。雪国生まれの僕にとって、霜柱は話に聞くだけの存在でした。雪が積もってしまって、霜柱の出番がないからです。東京の暮らしが、故郷で過ごした年月の倍に近づいています。いよいよこれまで磨き上げてきた成果を作品にする時です。作家の人生はこれからが始まりです。そしてもちろん「スポーツ選手のピークは20代」ではなく、死ぬまでスポーツで自分を磨き、成長し続ける。自らそれを実践していきます。本年も、よろしくお願いします。
頭で「わかった」と思って完結する風潮 2008/12/29
頭でわかるのと、身体でできるのは違います。武術を学んでいちばん戸惑ったひとつがここです。新しい技や感覚を体感させてもらった時、僕はどうしても「わかりたい」と思い、「わかろう」とします。そして「なるほどそういうことか」と頭で理解できると「わかったつもりになる」のです。実際には何もわかっていない。なにしろ、自分ではさっぱりできないのです。それがどんなに愚かで、実践者として意味がないかさえ忘れているのが、最近の風潮ではないでしょうか。できる人は理屈抜きです。身体でやってこそのスポーツ界さえ、実践の裏付けの薄い言葉が横行しています。自分ではできない監督、コーチが、できる選手のフォームを見て、まるですべてわかったかの調子で指導するのは一例です。できる感覚は外から見た動きだけでは理解できません。
スポーツの怖さ 2008/12/17
高校野球を取材に行くと部室などに部訓が掲げられ「野球を通じて人格を磨く」といった目標が示されています。ところが、練習や試合を見ていると、それと正反対の「勝つためならルールの裏をかく」「マナーに反しても目立たなければよい」といった姿勢が随所に見られます。最近のスポーツ界は、高校野球に限らず「勝てばいい」「儲かればいい」「視聴率が上がればよし」といった基準で動いています。日々身体に叩き込まれるのは、理想と反対の勝利至上主義、経済優先の価値観。無意識に自分を動かす原点(心)が、そのような色に染まったらどうなるでしょう。どんな心根を持つかが、その人の「まさか」の行動を決定づける。スポーツが日々、どうしようもない心を育てる片棒を担いでいるなんて、悲しいでしょう。
無意識の世界で自分を動かすもの 2008/12/15
前々回、「咄嗟に行動するのに0.2秒。それを自覚するのに0.5秒かかる」と書きました。いまの日本社会は、政治でも経済でも教育でも、本来は「知的」であるはずの分野ほど、0.5秒以後の「頭で判断し、頭で命令する」意識的な回路が主流を占めています。頭の判断の根拠になるのは何でしょう? 損得勘定、欲、打算……。日本の荒廃の原因・核心が、この一点からすごくよくわかりました。では、0.2秒以内の、〈無意識の世界〉で、人は何に動かされて判断し、行動するのでしょう。それは、頭の命令を超えた、身体の反応。DNAに刻まれたその人の本質であり、その人の「心」です。無意識の世界に、理屈も打算も通用しません。心を鍛える。心で生きる。スポーツがその鍛錬と結び付いたら、これほど誇らしいものはありません。
早い人、遅い人 2008/11/26
「お前は遅い」と宇城憲治師からいつも厳しく指導を受けています。「早い、遅い」の意味が最初はわかりませんでした。たとえばお酒の席でも、早い人と遅い人の差は歴然とします。スッと先に動いて、絶妙なタイミングでビールを注いだり、足りないお皿を差し出す人は「気配りがいい」。懸命に気配りしようと心がけ、その姿が痛々しく見える僕などは「遅い」のです。できる人・早い人と遅い人の差は、「無意識にできる」か「意識してやっているか」です。頭で考え、頭の命令で動く人と、「普段から身についている人」の明確な違い。これはその人のスピードにつながります。普段の生活から早さを鍛えることは、スポーツにもつながります。日常から取り組む。“スポーツからスポーツ道へ”の意味はここにあります。
咄嗟の行動は無意識の世界 2008/11/24
アメリカの学者の研究によれば、人が何かを察知して行動を起こすのに「0.2秒かかる」そうです。たとえば車を運転中、目の前に何かが飛び出してきたとき、咄嗟にブレーキを踏むのに0.2秒はかかる。興味深いのは、自分の頭で(あ、ブレーキを踏んだんだ)と理解するのに「およそ0.5秒かかる」という現実です。行動より自覚のほうが遅い。最近はスポーツの現場でも、「すべて頭で理解し、頭の命令で動かす」指導や発想が支配的な気がします。実際は、意識を超えた無意識の世界で判断・決断・行動が行われている。スポーツの実戦では言うまでもなく「0.5秒では間に合わない」局面がほとんどです。なのに頭の命令を手がかりにしようとする矛盾。僕が「スポーツからスポーツ道へ」と提唱し、実践を重ねている根底にはそれがあります(以下次回に続きます)。
頭の命令で動く愚 2008/11/11
日本のスポーツ界の深刻な問題は、スポーツを「頭の命令でする」「頭で理解する」「頭で指導する」のが主流になっていることだ。スポーツに限らない、社会全体の傾向だ。僕自身、宇城憲治師に指導を受け、体感し、明快に指摘されてその事実に気づいて愕然とした。前回書いた〈鏡を見て素振りをする〉〈試合前にヘッドフォンで音楽を聴く〉などの行為を「依存」と呼ぶ理由はここにある。鏡を見て素振りをする打者は、目から入ったフォームの情報を頭脳で判断し、頭の命令でバットを振る。実際の打席では、そんな暇はない。感じて動く身体と技を磨く。熱いお湯に手を突っ込んだら、〈熱いから引っ込めろ〉と思うより先に手を引っ込める。身体に「できる」という回路が構築され、頭の命令より素早く動く。宇城師は「身体脳」と表現された。詳しくは拙著『宇城憲治師に学ぶ 心技体の鍛え方』(草思社)でお読みください。
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